児童ポルノ規制法、改正案についての見解

まず、私の立場から言えば、この改正案については反対である。
それについての理由を以下に簡単ではあるが述べてみた。後々の事実確認、論理的修正にて少々記述が
変化することも考えられるが、大筋に於いて主張は変わらぬと思う。
何か事実誤認、論理的誤りがあれば、自分自身の後学の為、容赦と指摘を乞う。

 2002年5月10日、日本政府は、子ども特別総会が行われている国連本部で、
18歳未満の子どもについて、買春やポルノを禁じた「児童売買・買春・ポルノ」と、
徴兵などを禁じた「武力紛争における児童」の2つの選択議定書に署名した。
(朝日新聞HP、2002年5月11日付の記事)
近代の人権精神から言っても、これは当然のことと思う。弱者保護は国家体制の
主義主張を越えて人道的見地からなされなければならない理想であるからだ。
現実として、その理想は不可能ではあるが、そういう目標を掲げたからには、
不可能であることに甘えてはいけないと思う。
その理想は達成されなければならないし、達成されるよう努力すべきものである。
そうしなければ、目標として掲げた意味が無い。

しかしここで問題としたいのは、「性的対象としての子供」の解釈・規定についてである。
今現在、日本に於いてはポルノ写真の所持やアニメ・漫画などは対象外となっている。
またインターネット上の児童ポルノも原則として対象になっていない。
それが、改正案としてはそれらも処罰の対象となる。
そこで、これら処罰対象になるであろう3点についての個人的見解を拙いながら述べようと思う。
それは、ここに至って未成年者にとって有害となる要因を持つ情報を提供している者として
なにかしらの考えを述べる責任があるという見地からである。

1点目、インターネットで流される現実に存在する子供を対象にしたポルノを不特定多数に対して公開・販売することに
(ニュースソースが曖昧な記述なので、こう解釈するし、改正案提出者の意向もこうであろう)関しては、
現実的に被害があるものとして処罰の対象となっても良いと思う。
当事者同士の合意(といっても子供には判断能力が無いと思われるので、この前提は成り立たないが)
があったとしても、それを不特定の第三者が閲覧所持可能であるならば、それはその現実に存在する子供の
人格が独り歩きし、それによって人格権等が侵害される怖れがあるからだ。
現実的に客体対象が侵害を意識するにせよしないにせよ、存在するわけなのだから、客体が好むと好まざるともにも関わらず
、現代的なその行為能力の共通認識に於いて、その対象は保護がなされなければならない。
個人的見解としては、これが先の法案に盛り込まれていなかったことに驚いている。
これは、改正されなくとも先に施行された現行法でも対処できるはずである。
障害はあるであろうが、形式上の海外からの情報提供に関しては、それぞれの国家間の法律のすり合わせによって対処できるハズであり、
また対処なされなければならないものと思う。現実的に観念的にしろ直接的にしろ被害者があるのであれば
それを保護するのが、現代における人権保護行動の発現であると解する。

2点目、所持についてであるが、基本的には処罰の必要はないように思える。倫理上、所持は間接的搾取であるので、問題はあると思うが、
所持の前に所持という行為を可能とする対象物を作る者がいるわけであって、それを規制すればよい。問題の原因を排除すれば
よいだけのことである。疑問は所持について処罰ができたとして、実際にどういう手続きで摘発・起訴するのか。
それが非常に問題である。それについての具体的な規定が無いのである。
例えば公園で遊ぶ自分の子供を眺めていた(第三者にはその人の子供であるかどうか
わからないので)という事案で、児童ポルノ所持の疑いありで、事情を聞くことができるのか。犯罪の怖れ有りとの要件を満たすのか。
手続き上は任意という形になるだろうが、現実的に「任意」というのは強制に近いものがある。
つまり、別件逮捕からの代用監獄行きの手段を増やすことに繋がりかねない。事は児童ポルノ所持だけに留まらないのだ。
代用監獄は人権侵害である。メディアに流されるのは別件逮捕をして、その本当の目的である疑いの真相が明かになった場合だけである。
もし本当の目的である疑いがなければ、逮捕・拘留の時間はどう補償されるのか。
手続きも法律も立法時の精神と解釈に即して、正常に運用されれば問題は無いのだが、
法律はその立法者の思想を離れて独立する性格を持っている。故に所持について処罰云々の規定は
時代が下れば、危険な法律になる可能性がある。
ポルノ所持についての摘発手続きは現行犯逮捕以外にないと思う。
それでもなお、どのような構成要件を満たせばが現行犯逮捕に値する「ポルノ」となるのかが問題なるので、やはりこれを施行するには
厳密な「ポルノ」の規定が必要である。これは憲法で保証する基本的人権の規制を公共の福祉に沿って制限するモノであるので、
「その時の状況によって」という曖昧な理由に依って犯罪構成要件である違法性が成立するという議論は許されない。

3点目、創作物に関しての処罰について。これは、他の2点と問題の本質が違う。つまりこれは先の2点は社会的弱者つまり
子供の保護に関する手続き上の問題であるが、これに関しては個人の思想制限に関するものである。つまり、保護すべき対象が無く現実的被害者がいないのである。
おそらくこれは犯罪予防の観点から派生したものと推測できる。それを見た、聞いたことによる模倣犯を防ぐものであるということであろう。
しかし、メディアからの影響によって犯罪が増加するという説は実証されていないのが、通念である。科学的に不確かな理由によって
法律を制定、施行する事は危険この上ない。それが個人思想に関する規制についてなら尚更である。
創作物は非常に曖昧である。それは受け手側個々によって解釈が違うことも多々ある。つまり、不確かなのである。
不確かな物を不確かな理由で不確かな手続きに於いて処罰・制限されることは法治国家に於いては絶対になされてはならない事である。
個人的見解では、個人思想に於いて現実的被害が無い以上これは無制限に尊重されねばならぬものだと思う。
飛躍的な例えではあるが、頭の中で地球征服を考えたところで、誰も被害を被らないハズだ。発表したところでそれを実行した者がその罪を問われるものである。
教唆は犯罪であるが、それにあたるとも思えない。
この規定を発案たらしめる原因として模倣による実際の犯罪があるという説が有力な要因であることと思うが、
因果関係が不確かなのは少し調べれば判ることだ。感情的に考えれば、性的なものを扱った(児童、成人問わず)創作物は人によっては
不快この上ないものであるというのは判る。しかし、不快なものを須く排除するという行為は理性の無い自然行為であり、到底法治国家体制をとる社会の
する行為ではない。(余談ではあるが、私は法治国家の法による支配の偽善を疑問視する者であるので、
別に不快という理由によって全てを排除する行為を否定はしない。それは論理的に排除行為の具体的行動としては殺人をも含むと考えている。
つまり、おおいに飛躍的ではあるが、理性のない自然行為に即した規則は原因によってはいわゆる理由無き殺人をも容認するものと考えている。)
だから、規制したいのであれば、創作物を見せたくない対象に見せない様にするのが
(どのような判断基準によって見せないモノ、見せても良いモノを区別するかの規定によって問題が出る可能性があるが)
現実的であるし、実効的であると思う。個人思想規制に関する法律は少ないのが一番良いのであるが、もし規制をするとしたら、
現実的に出来ることとして、比較的問題が少ないと思われるのは、法案で提出されている範囲で言えば、
ネット上の創作物(フィルタ等をかければ良いというのはあるが、これは実効性が無いように感じる。)
に関して、アダルトチェック等のシステム導入、情報発信側の配慮を要求する方法はどうか。
ネットは情報発信者と被発信者が直接結びつくものであるので、被発信者が行為能力の無い場合、その有害情報はなんの障害もなく被発信者に到達する。
これを発信者側から規制するのである。
これに関しては情報発信形式・手続きに限ってのみ(情報内容は問わない)百歩譲って、規制対象になっても良いと思う。
規制は無いに限るが、現状のシステムではそうもいくまい。
つまり、問題なのは個人思想、表現「あらいざらい」を第三者、特に権力が判断し、処罰できること。しかもその根拠となる規定が曖昧なのである。
何度も言うが、法律はその立法者の思想を離れて独立する性格を持っている。曖昧な規定は、時代が下れば、危険な法律になる可能性がある。
故にどうしても、個人思想規制法律を立法するのであれば、確固たる事実に基づいた根拠に即して規定を密にし、立法するべきである。
特に個人の自由の規制に関する法律の文言に、拡大解釈を許すような曖昧な規定・表現は一片たりとも絶対許されない。
立法・施行されるのであれば、確固たる根拠・それのみに即した規制対象の規定(何々「等」という文言は不可)を政府は提出し議論をすべきである。

以上、現代的法治国家の観念に於いて、個人的見解では、法案原文いわゆる児ポルノ法改正法案については法律としては曖昧かつ不完全であり到底、
法律と呼べるものではないので、立法する理由の議論以前に法律としての体裁から言って反対である。
この際、規制するなら、ホラーもガンアクションも規制しろという不毛な議論はしない。
処罰対象が浅く広い規制法律の規定は現代法治国家に於いて通用させてはいけないものであると考えるが故に論理的にこの改正法案には反対なのである。
法治国家という体裁を続けるのであれば、この法案は絶対に通るべきものではない。
下世話に言えば、そんなんがいいかわりーかどっちでもいいけど、スジっつーのを大切にしよーや。道理が通らず無理が通るってそりゃねーだろ。
ということである。

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